生きることを永遠に楽しむために

最近はスマホがカーナビの代わりになっていて配送業の人も自転車にこれをつけている人たちもいます。

いろんな方向に進みたい車とかバイクとか自転車とか、みんなとぶつからないように右折をしていくためには、かなり手前から車線変更をして、自分で判断し決定していかなければなりません。

交通社会の中においてさえ色んなタイプの車、色んな人たちがいます。

人間社会の中においても色んなタイプの人がいて、自分で判断しそれぞれ色んな生き方をしています。

そんな中にあって、本当に幸せに生きたい生きることをもっと楽しみたいと願うのは、元々人間に備わっている欲求ですから自然なことと言えます。

生きることを一時的にではなくて永遠に楽しむにはこういう生き方をする必要があると聖書は教えています。

「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広くてその道は広々としており,それを通って入っていく人は多いからです。一方,命に至る門は狭くてその道は狭められており,それを見つける人は少ないのです」。(マタイ7:13,14)

皆さんだったらどちらの道に行きたいですか。

6車線もある広くて大きな道でしょうか?それとも車も走れないような狭い道でしょうか?

広くて大きな道は滅びに至るとあります。

見えてる目的地は何でも揃っている魅力的な街に見えるかもしれませんが、実はその手前が深い谷底になっていて命を失う道です。

聖書はこの道のことを今現在の世の中、体制を表していると教えています。

一方狭くて歩きづらそうな道は命に至る道と表現されています。

車では通れない、自分の足で歩んでいく道です。決して楽はできないかもしれませんが、行き着く先はパラダイス、楽園のような土地となっています。

皆さんはどちらがいいですか?あなたはどちらを選びましたか?

聖書の神様エホバは、生きることを永遠に楽しんでほしいと思っています。

神エホバが最初に思い描いていた通り、楽園になった地球でいつまでも幸せに暮らせる時がすぐそこまで来ています。

では、この命にる道を私たちが 歩むためにはどうすれば良いのでしょうか?

どうすれば良いかを神様は聖書の中で教えています。

命に至る道を歩んでいくには、生き方全体でそれを表していく必要があります。

そのためには、まず聖書をよく学んで信仰を育てていく必要があります。

聖書レッスンをして神様が求めていることを知るのは大切です。

でも、なんかハードルが高いなと感じることがあるでしょうか。自分には無理、人と違う生き方は厳しいと思うでしょうか。そう思うこと自体は自然なことと言えます。

周りの人たちと違った生き方をするには、聖書に書かれていることが本当に正しいと自分自身が本当に確信することが大切です。

聖書は神が書かせた本だと思えないならば、他の本にはない聖書の特徴についてじっくりと調べてみましょう。

これまでに何十年何百年と聖書の歴史や記録の正確さに意義を唱えた人がいますが、それについて誤りを実証できた人は1人もいません。

聖書は実在の人物と実際に起きた出来事を記録していることが実証されているからです。

今から30年ほど前の1993年より前には、ダビデが実在の人物だったことを示す記録は聖書以外にありませんでした。

1993年にイスラエル北部で考古学者が西暦前9世紀の石碑を発見し、「ダビデの家及びイスラエルの王」という言葉が記されていました。

このような事実は、聖書の歴史記録の正確さを実証するものとして、 聖書が信頼できる理由の1つと呼ぶことができます。

また実際に起きた出来事は、聖書の正確性や本当にそれが正しいという確証を与えるものとなります。

世界的な流行病のパンデミックが起きるということや、物価の高騰による騒乱や戦争があちらこちらで起きるということを何千年も前に聖書が予告していましたが、まさにその通りのことが今私たちの目の前で起きているのではないでしょうか。

他にも、聖書は科学的に正確であるという点や内面的に調和しているということ、これまでに成就してきた預言というものをあげればきりがないほど、聖書が信頼できる理由を見出すことができます。

このように聖書を学んでじっくりと調べることによって、自分がこれまで信じてきたことが正しいかどうかを確かめてみることができます。

イエス・キリストも、まず真実を知る必要があるということを教えました。

「とはいえ,真の崇拝者が聖なる力と真理に導かれて父を崇拝する時が来ます。今がその時です。実際,父は,自分をそのように崇拝する人たちを求めています。神は目に見えない方であり,神を崇拝する人は聖なる力と真理に導かれて崇拝しなければなりません」。(ヨハネ4:23)

聖なる力と真理に導かれて神を崇拝するとは、一言で言うならば、神のご要求を守ることです。それには忠実さ誠実さを持って神に仕えることが関係しています。

神ご自身がそのように崇拝する人を求めているとあります。

エホバという神様は、ご自分が求めていることに調和した生き方をする人の崇拝を受け入れてくださいます。

それでエホバ神の考えとか見方をよく知り調べる。つまり聖書に書かれている事柄に自分を合わせて、それに調和した生き方をすることは大切なことと言えます。

神の聖なる力によって、聖書を理解するように導かれること。これが聖なる力と真理に導かれて神を崇拝するという意味になります。

神が求めている生き方をするには、自分の良くないところを直したり、ライフスタイルを大きく変えたりしなければいけないかもしれません。

聖書の中にも、生き方を大きく変えた人の記録がたくさんあります。

以前は気性が荒くクリスチャンを容赦なく迫害していたパウロは、真実を知りそれに合わせて自分の考え方とか生き方を変えたことが使徒26章に記録されています。

まさに聖なる力と真理に導かれて神を崇拝した人ということができます。

聖書の真理を知って、神様エホバとの絆が深まって信仰が育っていきます。信仰が育ってくると、自分を変える力が湧いてきます。

「神に近づいてください。そうすれば,神は近づいてくださいます。罪人たち,手を清めてください。優柔不断な人たち,心を清めてください」。(ヤコブ4:8)

神から自動的に近づいてきてくれるのではなく、自分から歩み寄り近づく努力をするということです。

具体的にどういう努力ができますか?

神様が嫌っていることやめなさいということをしないことです。

「さて,罪深い欲望から出る行いは明らかです。それは,性的不道徳,汚れ,恥知らずな行い,偶像崇拝,心霊術,敵意,争い,嫉妬,激怒,不和,分裂,分派,ねたみ,酩酊,ばか騒ぎなどです。こうした事柄について私はすでに警告しましたが,あらためて警告します。こうした事柄を習慣にする人が神の王国を授けられることはありません」。(ガラテア5:19-21)

ここに列挙されているのは神様からの警告です。

皆さんが乗る車に警告ランプがあるのをご存知でしょうか。黄色の警告灯とか赤い警告灯があります。

黄色がつくことは良くないですが、早めに手を打てばまだ大丈夫です。

でも赤い警告灯がついたならば、すぐに走るのをやめるか、何とかしてディーラーやカー用品店に車を持ち込む努力をするのではないでしょうか。

この聖句はエホバからの警告ランプです。

神から見て汚らわしい習慣をやめる努力をしましょう。

周りを見ると、そんなのみんなしてるじゃないかと思うことがあるでしょうか。

タバコを吸うこと、結婚前の性関係、最近では同性婚、不倫が当たり前のような風潮になっています。

そうした世の中の流れ、潮流というのは本当に正しいのでしょうか。

「私は主によって語り,勧めます。もうクリスチャンではない人々のように,むなしい考えに従って歩んではなりません。彼らは思考が闇に覆われていて,神による命から遠く離れています。神について知ろうとせず,心が無感覚だからです。 道徳感覚がまひしていて,恥知らずな行いにふけり,あらゆる汚れた事柄を貪欲なまでに行います」。(エフェソス4:17-19)

クリスチャンではない人々のことが挙げられています。

神について知ろうとしない人、神の基準を知らない人のことです。

その人の道徳感覚は麻痺していて無感覚であると述べられています。

有名人のスキャンダルというのは、視聴率とか再生数もぐんと上がります。

そういうものを見ることによって、それは普通のことなんだ不道徳は当たり前のことという間違った考えが植え付けられて、道徳感覚の麻痺している芸能人とか有名人のライフスタイルから影響を受けることになります。

今はスマホ1つで動画が見られ、不道徳的な動画とかオカルト的な動画が目に飛び込んできます。

それで他の人がどうとか人がどのように見るかという人間の見方ではなく、エホバがそれをどうご覧になるかということをいつも考えましょう。

聖書レッスンをして神様の考えとか神の基準を知って、大きな変化を遂げた人たちはたくさんいます。

以前は軍人で戦地で人を殺していた人とかプロボクサーで人を毎日殴っていた人、煌びやかな芸能界で不道徳的な生き方をしていた人とか、ギャングの一員で人の命や金品を奪い麻薬に手を染めていた人など、以前は本当に神様の嫌う生き方をしていた人が聖書の真理を知って本当に大きな変化を遂げたという人のライフストーリーが  jw.org に掲載されています。

聖書の理解が深まり信仰が育ったならば、クリスチャンになるように他の人を助けるのも大切なことです。(マタイ28:19,20)

神に喜ばれる生き方を始めるために、祈りの中であなたのために生きますとエホバに約束し、バプテスマを受けるというステップを踏むことによって、命に至る道を歩むことができます。

それであなたも命に至る生き方はできます!

命に至る道を歩むには、人と違う生き方をしたり険しい道のりに感じたり、大変そうに思えるかもしれませんが、実はそれが自由で幸せな生き方であるということができます。

「私が今日命じるこのおきては,あなたにとって難し過ぎるものでも,遠くにあるものでもありません」。(申命記30:11)

聖書に書かれているエホバのお考えや見方は、難しすぎるものでないとあります。

エホバという神様は、無理なこと不可能なことを要求したりはされません。

神の求めておられる事柄は道理に叶っていて、誰でも行うことができるものです。

聖書は全く時代遅れで、多くの自由を制限していると思うことがあるでしょうか?

何も制限がない方がいいのでしょうか?

交通法規のない都市を想像してみてください。

運転免許証も運転試験も必要ではありません。好きなように運転できます。

制限速度も止まれの標識、信号や一方通行、横断歩道も気にする必要がない。

そのような自由の中で運転したいと思うでしょうか?

結果は無秩序、混乱、大惨事となります。

交通法規は人々の自由を制限するとはいえ、運転手はもちろん歩行者にとっても身の守りとなっているということを私たちは理解しています。

交通法規には長々とした細かな規定や条例が含まれていることでしょう。

それとは対照的に、聖書には規則が長々と列挙されているわけではありません。

①「これより先は進入できません」②「道幅が狭いので、自動車の通行はご遠慮ください」③「これより先は、本当に本当に侵入できません」この3枚の標識の言っていることは難しすぎますか。

命に至る道を歩んでいくのに必要な聖書の言葉というのも、難しすぎるものではありません。

危ない道を行って崖から落ちてしまうのを事前に阻止してくれます。引き返せなくなる前に警告してくれます。

エホバという神様は、命に至る道を歩むこの生き方をできるように助け、それを続けられるよう支えてもくれます。どんな風にでしょうか?

「あなたの神である私エホバは,あなたの右手をしっかりつかみ,『恐れてはいけない。私があなたを助ける』と言う」。(イザヤ41:13)

エホバ自ら、大変な時には助けると約束してくださっています。

どんな風に助け、支えてくれるのでしょうか?

聖なる力によって後押しし力づけてくださいます。

聖なる力というのは、よく電流に例えられます。

どの家電製品でも、コンセントを差し込んで電流が流れた時にそれが使えるようになります。でもコンセントを抜くと動かなくなります。

エホバは電流のように聖なる力を私たちに送り込んで助け、支えてくださいます。

ぜひその聖なる力でパワーチャージしていきましょう。

私たちがパワーチャージできる場所があります。

集会に行くならば、仲間と励まし合いサポートし合うことができます。

エホバは聖なる力や集会によって私たちを助け、支えてくださるからです。

それで私たちは、こうした神様の助けや支えをフルに活用して、真剣に取り組んでいくことにいたしましょう。

命に至る道は、6車線道路のようにスイスイ走れないかもしれません。

神が教えている通りの生き方を始めるには時間がかかるかもしれませんが、真剣に取り組むならば、喜びでいっぱいの人生を送ることができます。

エホバからの警告ランプがつくような生き方はやめましょう。

「さらに,世も,世の欲望も,過ぎ去りつつあります。一方,神の望むことを行う人は永遠に生きます」。(ヨハネ第一2:17)

命に至る道を歩む生き方をする人のことを何と述べていますか?

神の望むことを行う人は、永遠に生きられるという本当に大きな祝福を得ることになると聖書は約束しています。

楽園という最終の到着地にたどり着くことができます。

今は終わりの時代です。人々は広くて大きな道を進んでいます。

その先は滅びに至ると聖書は教えていました。

今の世界はもうすぐ終わり新しくなります。

それで遅くならないうちに命に至る道にターンしましょう。今ならまだ間に合います。命に至る道に斜線変更しましょう。

そのようにして、神に喜ばれる生き方をして、永遠に生きることをぜひ楽しみにしてまいりましょう。